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パパは発達障害だった

どうも。アラサー新米パパ、愛に生きるライオンです。

自分の思考を整理しようとブログを始めて2年。整理するどころかより雑多になった気がする僕の脳内。次から次へと襲ってくる思考の波。思い付いたことも一瞬後には忘却の彼方。会話や文章は支離滅裂。やりたいことが続かないばかりか、やらなきゃいけないことすら疎かにしてしまう。ダメ人間街道まっしぐらな僕の日常。

それでも「ダメ人間であることを享受していては本当にダメになる」と自分を奮い立たせ、 本を読み、勉強をしてこなかった頭に知識を蓄え、様々な改善策を試みるも何か違う。どうもしっくりこない。違和感が拭えない。何をやっても結局は元の木阿弥。後先考えず、行動力のみでここまできた行き当たりばったりの人生。何故僕はこうもダメなのか。その答えは脳機能にありました。

 

パパは発達障害だった

そう、僕は発達障害だったのです。これまで全く自覚も無く生きてきました。とはいえ僕は元々発達障害に関しての知識が無く、名前の示すイメージから“発達の遅れ”を示すものだと思っていたのですが、必ずしもそうではないらしい。

 

発達障害とは

生まれつきの脳機能に障害があることが共通する、自閉症(AD)、アスペルガー症候群ASP)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)などの総称を発達障害と言う。
近年の研究により遺伝的な脳構造の違いであることが解ってきている。

 

ADHDとは

注意欠陥多動性障害”とは、一般的に“ADHD”(Attention Deficit Hyperactivity Disorderの略)と呼ばれる発達障害、もしくは行動障害。
幼児期に現れる発達障害のひとつ。不注意(物事に集中できない、忘れ物が多い)、多動性(落ち着きがない、じっとしていられない)、衝動性(突飛な行動を取る、順番を守れない)などを特徴とする。脳の器質的または機能的障害が原因とされる。
多く、年齢が上がるとともに多動の症状は減少するが、不注意と衝動性は成人になっても残る場合があり、これを成人ADHDという。

とあることがきっかけで発達障害の一種、“ADHD”の存在を知りました。調べるうちに、“ADHD”を持つ人の特徴がそのまま自分のことを示しているような内容であることに気付き、自分がADHDではないかと疑い始めたことが事の発端。

今回、子供が出来たことがきっかけでハッキリさせようと思い立ち、いざ病院へ。それまではネットでみつけたADHDのチェックリスト(あくまで診断前の目安)で自己診断をしてみるだけでしたが、間違いなくそうだろうという確信がありました。でも自己診断は自己診断。ちゃんと診断されないことには何も進まない。

「成人のADHD」の診察実績のある心療内科見つけ早速受診。診察数回と4時間にも及ぶ様々なテストを受け、診断結果が出るのに4週間ほど待ちました。診断結果は案の定「成人のADHDである」とのこと。

去年の11月の出来事です。現状日本には発達障害の専門医が少なく、複数の発達障害を併せ持つ場合もあるので、明確な診断が難しいらしい(因みにADHDの薬はある種の覚醒剤で、普通の人に与えると幸福感を得られるものでも、ADHDをもつ人に与えると落ち着くんだそうです。その薬を不正に受け取ろうとする輩が増えたことで、ADHDの診断が出しにくいものになっているのだとか)。

僕が受けたテストはちゃんと成人のADHD向けのものだったらしいのですが、先生が専門医ではなさそうだったので、詳しい話を聞けるような状況ではありませんでした。いずれ別の病院でも診てもらおうと思っています。

 

子供時代の僕

自覚の無いまま大人になった僕ですが、思い返せばADHD的な要素が多い子供だったと思います。僕はそんな自分を、昔から“クズ”だと規定してきました。今でもそう思わなくはないですが、ADHDとわかったことで少し救われたような気がするのも確かです。

両親に自分の子供の時のことを聞いてみると、多動性(衝動的な行動)が目立つ子供だったことがわかるエピソードが出るわ出るわ。

3歳の時には勝手にいなくなって警察沙汰になっていたり(母の友達の家から自力で帰ろうとした)、車で遠出するときなども、出発してすぐ「まだ〜? まだ〜?」とじっとしていないので、いつもアニメを観せることで気を紛らわせていたんだそうです(そういえば車にテレビが積んであったことを思い出しましたが、まさか自分のためだったとは知りませんでした)。

また、常に姿勢が悪くクネクネフニャフニャしていたので、よく祖母に「シャキッとしろ!」と怒られていました。写真を撮るといった一瞬の間でもジッとしていられないので、小さい頃の僕の写真はどれを見ても傾いた姿で写っています。とにかくじっとしていられない子供でした。

他にも、衝動的に行動したり(すぐカッとなる)。常に新しい刺激を求めるが、とんでもない飽き性でもある。好きなこと、興味のあることには時間も忘れて没頭するが、基本的に集中力が無く切り替えが苦手。物が捨てられず、片付けられないので部屋が汚い。でも何故か神経質で潔癖症。一度片付け始めると、引越しの如く大掛かりに片付けを始める。勉強はしないし、宿題は出さないし、学校にも行かない。全体的に成績はかなり悪いが、図工や美術、体育の成績だけは何故か良い。計画的に行動できない。物忘れが激しいが、妙なところで記憶力が良い(瞬発的な記憶力だけで高校を卒業したと言ってもいい)。などなど。

 

現在の僕

自分がADHDであると判明してから、自覚するようになった症状も多くあります。自己管理、時間や金銭の管理、片付けが苦手。忘れ物が多い。字が汚い。失言が多い。集中力に欠ける。頭に浮かんだことを即座に行動に移さないと気が済まない。優先順位の優劣を無視した行動をとる(頭では理解しているつもりでも)。行き当たりばったりの行動が目立つ。興味が持続しないせいか、思考の整理ができず、全体を俯瞰して見ることが苦手。先送りの名人(11月に判明したことを2月に書いている時点でもうね…)。などなど。

そんなADHDの特徴のうち、僕が最も厄介だと思っているのは“とにかく何でもかんでも先送りにしてしまう事”。これをもう少し制御できようになればADHDの特徴を逆手に取れると思うのですが、そうそううまくいかないので厄介です。

一般的にADHDは脳のワーキングメモリ(一時作業領域)が少なく、脳が情報をうまく処理できないのだと言われています。情報処理がうまくできないので現在の興味に引っ張られてしまい、物事の優先順位を無視した行動をとってしまう。物忘れが激しいのも、現在のことで頭がいっぱいいっぱいだからなのかもしれません。

これまで自分が正常だと思っていた癖や行動、苦手としていた行動の殆どが、ADHDの特徴に該当します。子供時代と比べ多動性は控えめになったように思いますが、じっとしているのが苦手なのは相変わらず。我ながら社会人としての自覚が全くない人間としか思えない。これを怠け癖と捉えられても文句は言えません。

 

親として

自分がADHDであると分かってからは「もし娘が自分の脳を受け継いだら」と、親の立場になって考えてみるようになりました。

ADHDが日本で知られるようになったのは、1997年の書籍「のび太ジャイアン症候群」で紹介されたことが始まりらしく、認知度が低いのも当然と言える比較的新しい分野です。僕の親が知らないのも無理はありません。そんな時代でも、僕の奇行を見守り、必要以上に咎めることなく寛大に受け止めてくれた両親のおかげで、僕は自分を卑下し続けることなく、人生を諦めることもなく、ムダに自己肯定感の強い人間として成長することができました。

そんな僕が今強く思うのは、発達障害の子どもに限らず「幼少期に親がどう接してあげたか」が人格形成に大きく関与してくるのであろうということ。

ADHD自体は環境では発現するものではなく、遺伝であると言われています。ですが、何も対策せずにいたり、間違った接し方をすることで、鬱病摂食障害、問題行動が目立つようになるといった“二次障害”を引き起こすこともあるそうです。

僕自身不登校だったことから、二次障害があったといえるのかもしれません。でも、僕の両親は常に僕の味方をしてくれていた(怒られなさすぎて逆に不安になることもあった)。自分のことを「おかしい、間違っている」と思うことがあっても、親だけは自分を否定しないでいてくれる。その安心感は、子供の心を豊かにしてくれるはずです。それは甘やかすだけとも違うし、間違いを指摘しないこととも違う。

もちろん僕自身人並みに以上にコンプレックスはありました。自分のダメさ加減に思い悩むことも多々ありました。人の気持ちを汲むなんてこも出来るはずがなく、散々やりたい放題やった挙句、習い事や部活にバイト、仕事も住居もコロコロ変えて、ダメ人間っぷりにおいて僕の右に出るものはいないだろうと思うほどでした。

それでも現在は仕事も続いていますし、友達にも恋人にも恵まれました。幸せな結婚を迎え、子供にも恵まれた。妻は僕の全てを受け入れてくれていて、自分がADHDだと自覚してからは、僕の行動が夫婦間の笑い話にもなっています。日常生活の困難と引き換えに、僕は大きな幸せを得ることができたのです。

信頼できる友ができたとことで、人を信頼する心を手に入れられた。信頼する心を手に入れたことで妻と出会い、妻と出会ったことで誠意ある生き方をしなければならないと思うようになった。

自分は学歴こそありませんが、人と比べても何ら遜色のない、寧ろ胸を張れる人生を歩んでこれたと思っています。何度も言うようですが、これらすべての幸せを掴めたのは僕の両親が僕の奇行に対し寛大であったからです。お金もかかっただろうし、随分と迷惑をかけてきたと思います。

思春期の頃に、親に対して反抗的な態度をとってしまったこともありました。大人になってもどうしても好きになれない部分、許せない部分もあります。人間だもの。でもそれ以上に、産んでくれたこと育ててくれたことに感謝したい。そして、今は「あなた達は発達障害の子を持つ親の鏡だった」と胸を張って言える。

もし、自分の子供が発達障害のを受け継いでいたとしたら、困ることも多いと思います。目が離せない落ち着きない子かもしれない。虐められないだろうか、仲間はずれにされないだろうかと心配でたまらないでしょう。でも、同時に楽しみであるのです。僕らにどんな驚きを与えてくれるだろうと。

他と違うことを怖がらず、受け止めてあげる覚悟を持ちたいと思います。個性を尊重し、伸ばしてあげることを第一に考えたいのです。僕が自由に生きてこられたのと同じように。

 

ADHDと共存する未来

発達障害のことを調べると、治療や抑制などを考えているネガティブな意見が多いような気がします。もちろん薬で押さえておくという手も有効であると思いますし、投薬に頼らない治療というものもあるのかもしれません。

でも、ADHDとしてADHDを自覚せずに生きてきた僕としては「発達障害を治療する」という概念そのものに疑問を感じ、薬は処方してもらわないことにしました。診断は受けましたが、治療も受けていません。

そもそも脳構造が違うので、発達障害が完治することはないんだそうです。では治療や投薬をずっと続けるのでしょうか? 自分らしさを捨てて、他人の型に嵌めるための行為は果たして正しいことなのでしょうか。そもそも“一般的であること”が本当に正常なことなのでしょうか。

発達障害は“障害”という呼び名を持ちながら、障害ではありません(ここではわかりやすく障害と書きますが)。それは僕が診断を受けた先生も言っていたことですし、僕個人の見解としてもそうだと思っています。あくまでその人の特長です。乱暴に言うと、健常者(と呼ばれる人たち)と絶対数が違うだけで障害というレッテルを貼られただけの存在。

しかし、言葉の力というものは想像以上に強いものです。人は“障害”という文字を見ただけで、無意識に“劣っている”と認識してしまう。

ADHDは様々なものに興味を示し、外に出ようとする凄い力を持っています。それを薬で抑制するなんて勿体無いし、その発想力を潰してしまうことにも繋がる。

発達障害と分類された人達は、ただ少数派のというだけで、決して劣った存在ではありません。でもせっかく“普通じゃない”というカテゴリーに分類されたのなら、僕はそれをチャンスと受け取ることにします。人生は1度きり。楽しんだもの勝ちです。

 

自覚するということ

さて、ADHDについて僕が思うことを好き勝手に色々書いてきましたが、個人的にはあまり早いうちに「自分が人とは違う」と知ることは「逃げ」に繋がるのではないかと思っています。逆境に耐え得る忍耐力というか、負けん気を養うことができないうちに、自分が発達障害と知ることは、発達障害という傘で身を守ろうとする癖がつくのでは。と、そう勘ぐってしまうのです。

とは言え、早いうちに自分の特性を知ることで伸ばせる能力もあるのかもしれません。僕のように知らずに伸び伸び育った例もありますが、結局は千差万別。答えは自分で見つけるしかない。

では、僕が今になってADHDであると診断を受けてよかったと思うことは何なのか。それは「諦めも肝心」と踏ん切りがつくようになったことです。けっして逃げ道ができたと安堵するために調べたのではありませんし、ADHDを免罪符に「自分の至らない部分を見逃してもらおう」とも考えていません。

結局、人一倍努力しなければ報われないのは変わらないのです。

 

おわりに

散々ADHDについて書いてきましたが、僕はもう一つ先天的な障害を持っています。それは「色覚異常」。文字通り色が正常に見えないということです。

日常生活には何ら困ることはない程度の色覚異常ではありますが、デザイナーという仕事柄困ることは多々あります。それなのに何故デザイナーという職業に着いたかといえば「好きだったから」ということになりますが、「知らなかったから」という事実もあるのです。

僕の母は女性としては珍しく色覚異常を持っていました。そのことで子供の頃に辛い体験をしたことがあったらしく、僕にその兆候がみられても黙っていたんだそうです。

そういった虐めや差別ににつながるという理由から、母の時代にはあった色覚検査?が無い時代に生まれた僕。薄々違和感は感じていたものの、色を扱うことを避けるように大人になりました。

もし、小さい頃にその事実を突きつけられていたら、まず今の職業を目指そうとはしなかったでしょう。ADHD色覚異常もその存在すら知らなかったので、「いつか改善できる」と信じて生きてきました。

その分改善できないとわかった時のショックは大きかったですが、知らなかったことで得たことも大きい。そして運命のイタズラか、なんの因果か、僕は自分に向いていないと言われる職業を生業としています。

このことから僕が得たのは「やってやれないことはない」、「好きこそ物の上手なれ」という実感です。とは言え、それで全てが丸く収まるならこんな記事を書いたりしないし、そもそもADHD色覚異常について調べようとは思いません。僕は今のままではダメなのです。ただ、生きていられるだけで済むほど現実は甘くない。

デザイナーとして色覚異常であることを公表することを「信用問題に関わる」と恐れたこともありましたが(今の仕事を始めてから診断を受けた)、ADHDのことが判明し、この際全てを曝け出して自分らしい生き方を貫いた方がずっといいだろうと思うようになり、あえてブログに書いてみることにしました。

仕事においても、ネットでの活動においても、子育てにおいても、これからは包み隠さずありのままの自分でいようと思います。それで否定されることがあるならそれまで、というただそれだけのこと。

因みにADHDである子供の割合は、全体の3〜7%、成人のADHDを持つ人の割合は全体の1.65%なんだそうです。そして、色覚異常を持つ男性は全体の5%、女性においては0.2%と言われています。決して少なくない割合かと思いますが、このどちらもを併せ持っていてることは稀でしょう。

僕はこれを自分の特徴であり、個性だと思うことにしました。キャッチコピーは「ゴッホの眼とエジソンの脳を持つ男」。

という冗談は扨置くとして、これからは自分がADHDであり色覚異常であること活かした生き方を模索していきたいと思うのです。坂本龍馬エジソンといった、ADHDを持っていたであろう著名人に思いを馳せるのもいいですが、自らが生きた指標になるべく強く生き、その証を残したい。

そのためには自分の性格を把握し、熟知した上で、至らない部分を経験でカバーし、一人の大人として成功しなくてはいけないと思うようになりました。自分の人生を悲観しないため、何より娘の笑顔を絶やさぬために。

 

なぜADHDのある人が成功するのか

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